伝えたい道

信仰への道のり

聖書にある二種類の木について 7

二つ目、肉なる者を自分の腕とする。
肉なる者はどんな人を指しているのでしょう?
肉でできた人、すべてのことです。そんな人を自分の腕とするということは、自分の頼れる力にするということになります。
ならば、人を頼ってはいけないことでしょうか?
神様が本当に伝えたいことは、神様の聖霊がいない肉なるものを自分の頼りにしてはいけないということです。


最後の三つ目は、心が主を離れている人。
心が主を離れている人はどんな人でしょう?
神様を信じていない人?こんな人は最初から心が神様の所にいないので、離れたとは言えません。神様がおっしゃりたいのは、神様に心を預けた人たちがいつの間にか離れたことを言っています。
まるで二千年前のユダヤ人たちのように。
口では神様を信じていると言いながらも、神様の御子、イエス様を殺したのです。
なら、彼らはどうして心が神様から離れたのでしょうか?それは、神様の言葉に含まれている真理をわかっていなかったからです。
聖書に記された御言葉を理解しないまま、ただ信じたからです。


今の時代で生きながら信仰の道を選んだ私たちの姿も顧みる必要があります。
本当に聖書の御言葉に隠された神様の御心を悟って信仰をしているのかを。

聖書にある二種類の木について 6

エレミヤ書には呪われる(災いに陥る)木(人)についてよく紹介しています。


エレ 17:5 主はこう言われる、「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心が主を離れている人は、のろわれる。
エレ 17:6 彼は荒野に育つ小さい木のように、何も良いことの来るのを見ない。荒野の、干上がった所に住み、人の住まない塩地にいる。


呪われる人は荒野に育つ小さな木にたとえています。荒野で育てられたので、栄養も水も十分に吸い取れなく小さいままです。
こうなったには三つの要因があります。


まず一つ目、人を頼みとする。
じゃ、人を疑っていきなさいという神様の御言葉でしょうか?違います。神様が望んでいるのは人々が作ったルールを頼るより、神様の御言葉を頼ってほしいことです。神様の御言葉に含まれている心理に近づこうとすると、必ず、サタンは邪魔をするのです。その手段の一つとして人の言葉で妨げるので、神様の御言葉と人の言葉の両方で迷う時、神様の御言葉を選ぶ勇気と決断が必要です。

聖書にある二種類の木について 5

箴 3:1 わが子よ、わたしの教を忘れず、わたしの戒めを心にとめよ。
:2 そうすれば、これはあなたの日を長くし、命の年を延べ、あなたに平安を増し加える。
:3 いつくしみと、まこととを捨ててはならない、それをあなたの首に結び、心の碑にしるせ。
:4 そうすれば、あなたは神と人との前に/恵みと、誉とを得る。
:5 心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。
:6 すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。


箴言では神様の教え(御言葉)を忘れず、心にとめよとおっしゃいました。そうすれば、すべての事で神様の守りと恵みに満たされるんです。
ここで重要なのは自分の知識に頼ってはならないことです。自分の考えがあってはいけないということではありません。そんなことを望んでいる神様だったら、最初から思考する人を創造するのではなく、ロボットをつくればよかったものの。だから、いつも神様の御言葉を中心にしてしたがってほしいことです。
人の考え方、思想、アイデンティティなどの形成はどれだけ外部から知識を受け入れるかで決まります。神様の御言葉でなかったいろんなことで形成された人の内面を作りなおすことです。神様の御言葉の影響で形成された人の考え方、思想、アイデンティティは自然と神様の望む方向に向かうのですから、主は私たちの道を真っすぐにしてくれるのです。


ここまで、神様の福に恵まれる木(人)について紹介しました。
次回からは災いに陥る木(人)について紹介したいと思います。