四番目は主のおきてを喜び、昼も夜もそのおきてを思う。
昼も夜も主のおきてを思うことができるでしょうか?
一日を過ごすうちにいろんな考えが頭の中をよぎっては消えていきます。ずっと主のおきてを思うなんてことは至難の業です。
それでも一日中、主のおきてを思えるように修行しなければいけないでしょうか?
神様がここで私たちに伝えようとしたことはなんでしょう?
例えば、好きなことになると人は夢中になりますよね。夢中になりことに心が惹かれ頭の中はそのことだけで埋め尽くされてしまいます。このように、神様の御言葉を思うようになることを神様は望んでいます。
このようになった人は流れのほとりに植えられた木にたとえられています。
聖書では人を木にたとえています。
なら、流れは何にたとえているんでしょう?
申 32:2 わたしの教は雨のように降りそそぎ、/わたしの言葉は露のようにしたたるであろう。若草の上に降る小雨のように、/青草の上にくだる夕立のように。
申命記に記されているように、わたし(神様)は自分の教えを雨に、言葉を露にたとえています。つまり御言葉を水にたとえています。
つまり、流れも水で御言葉を意味しています。
流れのほとりに植えられた木はいつも水を飲んでいるように、人もいつもどこでも神様の御言葉を思い考えるようにしてほしい願いが込められています。